リツアンいんふぉをご覧いただき、ありがとうございます。
僕はリツアンエンジニアの「ひろ」といいます。
ここでは、個人としてのプロフィール、ブログに関して記述していきます。
生い立ち
鹿児島県で育つ
鹿児島県の鹿児島市生まれ。
小さい頃から、「都会に住みたかった」と不満を抱きつつ、のんびりと過ごしていました。
高校3年生の大学受験時に都会に出ようと思い立つも、成績が足りずに断念し、地元の鹿児島大学に進学しました。学科は当時のITブームに乗っかって、工学部の情報系を選択。
大学では浪人も留年もしなかったけど、以下の通り、怠惰な学生生活を送っていました。
こんな感じなので、情報系の学生ながら、ゴミみたいなプログラムしか書けなかったけど、だからこそ、社会人はしっかりやろうと思ったものでした。
就職時には、めんどくささから地元志向が強くなっていたため、鹿児島を中心に活動するソフトウェア会社を探し、1ヶ月程度で内定を得ることができました。僕が就職する1~2年前は就職難の時代でしたが、自分たちが就職するときは売り手市場に変わってきており、そこまで苦労せずに済みました。
1社目の社会人生活
社会人になり、給料をもらい始めると、働いてお金を得ることの嬉しさを実感します。初任給は20万円にも満たない金額でしたが、給料をもらうことが重要な位置を占めることになり、仕事も一生懸命取り組む原動力に変わったのものです。
上の人たちも、僕ができるレベルの仕事を与えてくれるので、それなりの結果が出ました。また、配属先は同年代で気の合う人も多く、プライペートでも楽しく過ごせていたことも僕の中では大きかった。
ただ、そんな中でも、自分の将来を考えざるを得ない出来事が何度か訪れてきます。
リーマンショックを経験する
社会人2~3年目くらい。
あの リーマンショックが起こり、景気的には暗黒時代に突入しました。不況の波はどの会社にも押し寄せ、それは僕がいる会社も例外ではなく、会社全体で給与カットが適用。
会社が潰れたら意味が無い。
そう言い聞かされ、僕たちはそれに従うしかありませんでした。けど、「社会人としてほぼ何の力も持たない、こんな若手にも適用するものなのか」という考えがどうしても残り、感情的に処理しきれない日が続いていたものです。
この給与カットは3~4年程実施された後に終了となったものの、給与は低い状態で維持され、さらにモヤっとした状態が続くことになりました。
忙しすぎて体調を崩す
社会人7年目くらいのことです。
当時やっていたプロジェクトがとてつもなく忙しく、連日、日付が変わるまで仕事をして帰るというブラックな日々。やってもやっても仕事が終わらず、休日も当然のごとく出勤。結果、体調を崩し、精神も崩しかけました。
理由は至極簡単。今までとは異なる分野の業務に移った上に、一人で現場に出されたこともあり、基本的なことを教えてくれる人が不在だったからです。
何日か休みをもらい、現場を変えてもらうことで早期に回復することはできたものの、仕事のやり方について深く考えるきっかけになりました。
ゆったりと仕事漬けになる
社会人として10年目を過ぎたあたりのこと。
表現的に正しいかどうか分かりませんが、ゆったりと仕事漬けの日々になりました。仕事に行けなくなる程ではないけれども、基本的には仕事があふれており、家でも事務作業をこなさないといけない状態。
また、経験年数的にも一人で任されるのが多いことも拍車をかけていました。
やり甲斐もあったといえばあったけど、それ以上に管理業務、客先対応、プロジェクトのフォロー、後輩の育成など、自分ばかりが負担を強いられていると常に悶々とした日々。そして、助けが欲しいときに助けを得られるわけでもなく、自分が頑張るしかない。
これが自分が望んだ生活なのか・・・
僕はこの会社にずっといて良いのか・・・
次第に転職を考えることが増えていきました。
転職への道
思えば、前の会社に在籍しているときには、本来の自分を隠して会社に忠実な人間を装っていました。上の人間が下の人間を動かす考えが強い会社だったし、同調圧力も結構あったしね。
処世術といわれればそうだけど、使い勝手の良い人間と思われていたはずです。
使い勝手が良い奴なんで、そこそこ評価はされる。
そして、嬉しくない仕事が増えてくる。
でも、給料は自分が望むほどのはないし上がらない。
自分の性格は自分次第で何とかなるかもしれないけど、会社の特徴、雰囲気というのはなかなか難しい問題です。そういったことから、自分の置かれている環境を変えられないかと模索し始めました。
一時は公務員試験を受けもしましたが不合格。単なる勉強不足だったわけですが、抜け出せないのかと自分の力不足に愕然としました。
そういった中、現在の勤務先である「リツアンSTC」の社長のブログを発見しました。社長のブログに書かれている、エンジニアに還元するという言葉が僕の中に深く浸透し、心が洗われるようでした。
この会社に入りたいと強く思い、即応募しました。
リツアンSTCへ転職
リツアンSTCへ応募した僕は、電話での打合せ、関東での面談を経て採用されました。個人的にも会社の状況(案件の状況)的にも良いタイミングで、あのブログを見つけた自分は強運だと改めて感じました。
リツアンSTCへ転職後、何が起こったか? こちらに記事を書いているので、ぜひ読んでもらいたいです。
転職で得られたこと
上の記事にも書いていますが、僕は転職をすることによって、以下を得ることができました。
現在は、想定通りにことが運んでいます。しかしながらこの状態がずっと続くとは思いません。不測の事態に備える重要な準備期間と定めています。
ブログの開設
さて、このように転職で人生が好転したものの、これだけではとどめてはいけないと感じました。というのも、リーマンショックやコロナ禍といった、予期せぬ不景気が度々発生します。何かしら保険をかけないといけません。
そして、これから取り組むことは何かを考えた結果、ブログに辿りつきました。なぜなら、僕自身の考えを価値として提供できるから。
僕はこのブログを通して、以下のような人を手助けできればと思っています。
上に書いたのは過去の自分です。そのような不自由な生活から抜け出すには、環境を変えるしかありません。
億万長者への道には導くことはできませんが、年収500万円~600万円くらいで生活に困らないくらいのことは紹介できます。
(おまけ)エンジニアとしてのプロフィール
ここからはエンジニアとしてのプロフィールを書いていきます。
経験を積んだ技術
まずは経験を積んだ技術をざっと書き出しています。
携帯電話の開発へ
組込み系のエンジニアとしてスタート
僕が最初に入った現場は、ある家電メーカの 携帯電話(ガラケー)の開発現場であり、組込み系のエンジニアとしてキャリアをスタート。
テスターとして仕事の基本を学びながら、半年程経過すると、あるデバイスのミドルウェア(アプリとドライバの間に位置付けられるソフトウェア)のプログラマとして配置されました。
携帯電話は膨大な量のソフトウェアが入っているため、プログラムを作る人を含めて数多くの開発要員が必要です。ただし、新しいOSやフレームワーク、新しい機能、新しいデバイスに対応するとき限定。
一度市場に出せるくらいのソフトウェアが完成すると、後は完成版に若干の改良を加えたバージョンをリリースする形になるので、人員はかなり減少されます。
また、作業自体もほぼ保守だけが残るため、タイミングが悪いと プログラムを書ける機会が全く無いという、嫌なパターンにはまってしまいます。
しかしながら、僕がこの現場に入ったときは、OSには対応済みでしたが、新しいデバイスに対応している最中だったので、プログラムを作る需要がまだまだある状態といえました。これは 本当に運が良かったです。
androidの登場
運良くガラケーのプログラマの仕事を獲得できた後、プログラム言語的には Java、C++を経験しました。仕事をしながら、ガラケーってもっと自由にアプリを入れられたらいいのにと思っていた矢先、あれが登場しました。
そう、androidです。
アプリを自由に開発できて、インストールもアンインストールも自由(全部ではないけど)。今では当たり前のコンセプトですが、当時としては大革命だったのです。
そして、僕もその開発に携わることができました。個人的には初のLinuxを経験することになり、何もかもが新鮮でした。プロジェクトは もちろん炎上しましたけど、それも良い思い出かな。
ここでは C言語、Perl、シェルスクリプトを経験することができ、特にシェルスクリプトは今の業務でもかなり活用しています。
中途半端な組込みエンジニア
その後も仕事は概ね順調にこなしていきましたが、組込み系のエンジニアとして最重要であるデバイスドライバとは縁が無く、ほぼ ミドルウェアの開発ばかりやっていました。
何とか経験を積んで習得したいという思いはありながらも、現場の総合的な状況により、その機会は無し。組込み系の現場にいながら、デバイスドライバを知らない中途半端な組込み系エンジニアだな、と内心思ったものです。
この現場には約6年半お世話になり、別の業務へと異動することになりました。
Webアプリケーション開発の世界へ
新たな素人エンジニアの誕生
次に入ったのは、 Java、JavaScriptでのWebアプリケーションの開発を得意とするシステム開発会社でした。つまり、ビジネス系としてのキャリアをスタートさせます。ちなみに、その現場には同じ会社の人はいなくて、僕が初の要員でした。
そして、当の僕はというと、これまで組込み系の世界にいたので、Webアプリケーションなんて作ったことないですし、データベースなんて触ったことない・・・とにかく世界が違いすぎました。
数ヶ月は何とか作業をこなしていましたが、ビジネス系の基礎を掴めていない上に、メンターとなる人も不在である環境では、自分の精神と体調が悪化していくことを感じておりました。そして、半年を過ぎた頃に体調を崩し、この現場を離れました。
Webアプリケーションの基礎は学べたといえば学べましたが、微妙な素人エンジニアが誕生してしまったのです。
自社内の請負開発へ
ここからしばらくは、JavaやC#を使用した、 自社内のWebアプリケーション開発の作業に入ります。客先常駐でやられた僕は、派遣としては出せないと判断されたのでしょう。そんな微妙なエンジニアを、自社のある課長が拾ってくれました。
この部署での仕事も大変だったけど、良い経験を積めたと思います。とにかくプログラムを書く仕事で、嫌でも経験値を取得できて、レベルアップできました。
生きた経験と成果を積むことにより、失った自信を取り戻すことができたし、工程自体は限られたものだったけど、請負での仕事の仕方も学べました。
前社で積んだ経験
前社で経験を積めた技術は以下です。
そして、転職へ
自社での受託開発を約4年間実施した後、転職を決行。現在は、主に以下を技術を扱う作業を行っています。
転職前は自分の技術が通用するかなと不安がありましたが、案外何とかなるものです。これまでの仕事は大変でしたが、やった分だけ身についており自分を助けてくれていると実感しています。
僕と同じような境遇の方、諦めずに自分を評価してくれる環境を見つけましょう。